「初めのうちは気の付かない程度だが、ある日急に、何もする気がしなくなってしまう。
何についても関心が無くなり、何をしても面白くない。
この無気力はそのうちに消えるどころか、少しずつ激しくなってゆく。日ごとに、週を重ねるごとに、酷くなる。
気分はますます憂鬱になり、心の中はますます空っぽになり、自分に対しても、世の中に対しても、不満が募ってくる。
そのうちにこういう感情さえなくなって、およそ何も感じなくなってしまう。
何もかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかり遠のいてしまって、自分とは何の関わりもないと思えてくる。
怒ることもなければ、感激することもなく、喜ぶことも悲しむことも出来なくなり、笑うことも泣くことも忘れてしまう。
そうなると心の中は冷え切って、もう人も物も一切愛することが出来ない。
ここまでくると、もう病気は治る見込みがない。後に戻ることは出来ないのだよ。
うつろな灰色の顔をしてせかせか動き回るばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。
そう、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。
この病気の名前はね、致死的退屈症と言うのだ」
| — | (ミヒャエル・エンデ著『モモ』P360) |
そんなことを電話で家内にグチったら、「お父さん、マンションへ引っ越しなさい」といわれましてね。引っ越せば、自分で掃除したり、洗濯したり、ご飯をつくったりしなくちゃいけない。それが気分転換になるからというんです。引っ越したら、家内のいうとおりでした。つまり、精神の安定に重要なのは生活なんですよ。メンタルコントロールにはふつうの生活が何より大事なんです。
私の知り合いで、家の事は全部お手伝いさんに任せている人がいます。生家がお金持ちだからです。住んでいるマンションもきれいなところです。
仕事をする必要も無いので、やりたい事をやりたい時にやっています。時々ベンチャーに投資したりしているみたいですが、そこは詳しくはしりません。まあ、少なくともお金に関する事は心配してはいません。
稀に他人から解放されている人もいますが、多くの人は他人と自分の境遇を見比べます。先の様な話を聞く時に、平静を装いながら私たちは心の底になんだかずるいという嫉妬の様なものと、それから自分との境遇を見比べて不公平感が湧いてくる時があります。
そして、そらにその中から、それは結局他人の話だからとすぐ流れて行く人と、自分の中に何か流せないものが溜まっていくタイプにわかれていき、この後者のタイプの中に、さらに絡み始める人がいます。
こういうタイプの人はだいたい正義を持ち出します。努力しないで成功するなんて良くない事だ。裕福ならもっと世の中に還元すべきだ。しかし、彼らにそれを強制する権利は、国にももちろん個人にも、彼らの親ですらできません。
私たちは時に所謂成功者を見て『みんな必ず努力している』と言いますが、その実のところは『成功者には努力していてほしい』の裏返しである事が真相でしょう。成功にはそれに見合うだけの犠牲が無いと人は不公平に思ってしまうのです。
アスリートも似た様な環境にいます。苦しいあの時を乗り越えたから今がありますというと受け入れられるのですが、努力してない、もしくはしてない様に見える人は世の中から反感を買います。大体嫌われるアスリートはこのタイプです。そして、そのアスリートがぽろっと弱音を吐くと、あいつも苦しかったんだなあと、急に人は共感し始めたりするわけです。
努力があるから成果がある。努力していなくて成功するなんてありえないし、あってはならない事だと私たちは習ってきました。
深い世界の成功の定義ではそうなのでしょうけど、残念ながら現世の『いわゆる成功』ではそうではありません。努力をせずにオリンピアンになった人もいますし、生まれながらに庭から石油が出てた人もいます。楽しいだけの人生も、早くして人生を終えるべくして運命づけられた人生もあります。犠牲と成果は釣り合わないのです。
あるべき世界と現実の世界。この狭間で私たちは言いようの無い不公平感に襲われます。頑張ってもどうにもならない事があり、生まれながらに決まっている事があり、自分よりもずっといい思いをして生きているように見える人が世の中にはいるわけです。
不公平だ。その感情がだんだんと、何か自分にとって許せないものを排除したい様な、社会の秩序の為に取り除きたい様な、一見正義とも思える感情にすり替わっていきます。しかし、姿形は変わってもその根源は嫉妬です。ですが、そこに囚われた人にはそれが嫉妬であるのかどうかすらもはやわからなくなってしまっていきます。
世の中が間違えているんではなくて、犠牲と成果がバランスする、全てがフェアネスだという認識自体を疑わなければなりません。理不尽で当然、が世の常でしょう。情け容赦ない世の中を、それでもなんとかフェアネスに近づけようとしている、それが人間社会なのではないでしょうか。
そして、一生懸命正義の様なものをぶつけようと相手に対して目が離せなくなっているその時間は、あなたの限られた人生の貴重な時間なのです。
もちろん本当に正義に燃える時もあるでしょう。しかし、正義というのは空間と時間を限ってこそ存在できるものです。人生を賭けるべき正義は内省に内省を尽くさないと見つけられません。
あれは許せない、正しくないと思ったとき、本当にそれは違う感情から来てやしないか。また、それは自分の貴重な人生の時間を費やすに値するか。そういう問いが一度ぐらいあってもいいかもしれません。人生は人に気を取られていられるほど長くはありませんから。
| — | @nifty:為末大オフィシャルサイト「侍ハードラー」:嫉妬からくる正義 (via kml) |
外国兵は酔っていて、女に始終ふざけかかっている。女はうるさがって、外国兵にさんざん毒づいた挙句、隣に座っていた「僕」に寄りかかって甘えたマネをする。「僕」は疲れていたこともあって、心中は女がうっとうしくて仕方がない。女を払いのけようとしたとき、たまたまバスが傾いて、その勢いで女の体を突き飛ばしてしまう。
外国兵はひどく怒りだして、「僕」の胸ぐらを掴んで小突き回す。さらに屈辱を与えるべく、「僕」にズボンと下着を下げさせ、衆人環視の中で四つんばいにさせる。そして剥き出しの尻をナイフでぴたぴた叩き、「羊撃ち、羊撃ち、パン パン」と歌い、笑い興ずる。運転手と何人かの日本人乗客も同じ目にあう。
やがて外国兵が女を連れてバスを降りる。被害にあわなかった教員ふうの男が、「僕」に近づいてきてしきりに同情する。他の(被害にあわなかった)乗客たちも怒りにみちた声をあげる。教員が「警察に届け出て事情を話せ。証人になる」と言う。《不意の唖》となった《羊たち》は、誰一人口を開こうとしない。
バスを降りた「僕」のあとを教員がしつこくついて来る。「僕」は半ば強引に交番へ連れて行かれる。義憤に駆られた教員が、熱心に事情を説明する。警官は一応経緯を聞き、同情もするが、内容が内容だけに薄笑いを隠さない。「被害届を出すか」と問われ、「僕」は首を横に振る。教員は「泣き寝入りするな。事件を世に知らしめるため、犠牲の羊になれ」と言う。
結局「僕」は被害届を出さずに交番を後にする。教員はなおも付きまとう。そしてしまいにこう言う。「俺はお前の名前をつきとめ、お前の名前とお前の受けた屈辱をみんな明るみに出してやる。そして死ぬほど恥をかかせてやる。お前の名前をつきとめるまで、俺は決してお前から離れないぞ」と。



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よい子のみんなはまねしちゃだめだぞ。](http://25.media.tumblr.com/tumblr_m4tngh9zKp1qd91ado1_500.png)